みなさん、こんにちは。金村りゅうなです。
本日も、私の政治人生を振り返ってまいりたいと思います。
▶︎前話はこちら: #2 警察が尾行?!初の解散総選挙と悲願の小選挙区当選
【私の履歴書(3)】
運転随行秘書を卒業
2003年の衆院選が終わり、正式に地元秘書として勤務することになりました。
これまでは城島本人と過ごす時間が大半だった為、私は城島の思考を先回りすることに主眼をおいてきました。
「濃密な時間をともにすると思考は似てくる。」
これは私の実体験としてあります。
しかし、これからは選挙区で引き続き当選するための地盤固めが、私の主とした業務となります。
当時、私が入所した段階でいた先輩秘書は区議会議員に転出していたりと、事務所体制も大きく変化していました。
そんな中、運転随行秘書として仕えていた私は「城島のために」という一念で地元秘書を務めることになりました。
衆議院議員の地元事務所とは
基本的に、地元秘書になりたての私に与えられた業務は、後援会のみなさんと連携を取りながら新規に城島を応援してもらう後援者を獲得する活動が主でした。
老若男女問わず様々な人と関わることにより、私自身が社会性を磨かれることになります。
私が大切にしたのは3つです。
①城島の再選のための努力を徹底すること
②ありがとうとごめんなさいは1秒でも早く伝えること
③まわりから愛されること
この3つの視点から行動や言動を徹底することにより、信頼を得る。
後援会のみなさん、新たに秘書となった先輩のみなさん、顔の見えるみなさんとのコミュニケーションは今の私の礎となったのはいうまでもありません。
肩書きに溺れるな
地元秘書は、後援会活動を通してたくさんのイベントを企画します。
中でも、毎年秋に開催されるカラオケ大会は後援会にとっても力の入るイベントでした。
「NHKのど自慢大会」をイメージされると分かりやすいと思います。
我々は、後援会をブロック毎にわけ幹部のみなさんにチケット販売を依頼します。
開催する以上、空席を作る訳にもいきませんので、我々地元秘書はそれこそ駆けずり回りながら参加者を募ります。
しかし、私はどこか衆議院議員秘書という肩書きに慢心していたのかもしれません。
後援者は私が心底惚れ込んでいる城島を支援しているからこそ、参加してくれるだろうという前提にたっていました。
当たり前ですが、後援者は城島との繋がりも去ることながら、目の前で関わる我々地元秘書と濃密な人間関係を構築します。
その目の前にいる方々との信頼関係なくして、後援会活動の充実は果たせません。
このとき私は一人一人の繋がりを結集してこその後援会ということに気づきます。
その気づきを得てからは城島と合わせ、私も信頼されるよう心がけました。
地元秘書はつらいよ
選挙区内を歩く中では、色んな方とお会いします。
怒られる、怒鳴られるはしょっちゅうです。
またおべんちゃらをされることもよくあり、勘違いしてしまう秘書も見かけました。
さらに誰から話を伝えるかという順番で、頭を悩ましたことも一度や二度ではありません。
また、生活苦を理由に突然事務所にこられる方もいらっしゃいました。
つまり地元秘書は相手の立場に立ち、我々に求められたことを実現するのが仕事なのです。
褒められることなど皆無な環境の中、求められる期待に応えていく。まるで修行僧のようです。
そんな中、城島がぽつりと一言
「仕事の中で政治家の地元秘書が1番大変だ」
この一言で頑張れてしまう、魔法の言葉でした。
私は地元秘書の経験や城島からかけられた言葉によって、私にとって信念のような言葉に巡り合います。
それは「向き不向きより前向き」です。
自らマインドを整える。
これを心がけることにより、辛いことより相手が喜ぶことに目が行くようになりました。
しかしそんな私に大きな苦難が訪れます。
次回予告 「2004年チームから信頼を失う」
※photo→今朝の駅頭にて
▶︎次話はこちら: #4 若気の至りと、失敗から得る学び
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