こんにちは。金村りゅうなです。
本日も私の人生を振り返っていきたいと思います。
▶︎前話はこちら: #7 落選中の苦悩と「新天地」川崎
【私の履歴書(8)】
勝手に躓く与党自民党
長く続いた小泉政権も終焉し安倍政権が誕生します。
戦後最年少の総理誕生に国民も大いに歓迎ムード。
総理を目前に病に倒れた父・安倍晋太郎の無念を晴らすべく「戦後レジームの脱却」を掲げ、躍動する安倍総理に期待がなかったといえば嘘になります。
しかしあまりに急激な改革や世代交代路線は自民党内に新たな軋轢を生みます。
そして2007年参院選挙にて与野党逆転という難しい舵取りを強いられます。
他方、民主党は与野党逆転国会の中、参院から攻勢を強めていきます。
みなさん、ご記憶ありますか?「ガソリン国会」
軽減税率の廃止を主張しガソリン国会を演出します。
当時私も盛んに川崎駅で署名活動に精を出しました。
敵失は続きます。
安倍総理が体調不良により退任、その後誕生した福田康夫政権も民主党との連立政権を模索するなど参院での少数与党の運営により安定政権とは程遠い様子でした。
その頃、民主党は参院を主戦場とし与党を揺さぶり続けます。
衆議院では少数ではありましたが、永田町だけでなく川崎の中でも政権交代の機運が徐々に高まってきたことを覚えています。
地域を回ると、至るところで「応援している」とお言葉を頂きました。
ポスター貼りを依頼すればすぐに許可を頂け、1日に40枚ほど貼って帰るのも当たり前の日々でした。
政治活動の中で「必要とされている」「期待されている」と認識できたのはこの時が初めてでした。
そして福田政権が瓦解し政権交代前最後の総理である麻生政権が誕生します。
国民人気の高かった麻生政権は誕生後すぐに解散総選挙を検討していました。
私も川崎でそうなるものだと思い、城島もGOサインを出していたほどです。
しかし結果は先延ばし。リーマンショックが起きたからでした。
経済再生を優先し解散を断念。
このとき先送りを強く主張したのが、菅総理です。
人は価値観や信念などそう易々とかわるものではありません。
選挙に勝てるから解散するという価値観をお待ちでない菅総理のことは、この時の行動や言動にすべてあらわれている気がします。
私も衆院選を戦う当事者として一喜一憂しますが、やはり解散は秋だと捉えています。
経済再生を優先した麻生政権も与野党逆転の国会を乗り切ることはできません。
麻生総理の言い間違いなど、今思えば大したことない問題もクローズアップされてしまい支持率は低下の一途。
結果、強気な解散権を行使できずに2009年衆議院選挙になだれ込みます。
このとき私は川崎の地で政権交代を確信していました。
それは当時の鳩山代表が川崎駅東口ルフロン前で演説した時のことです。
溢れんばかりの人、熱心に手を振る聴衆。
政権与党である自民党であればいつもの風景ですが、私にとっては初めてみる光景でした。
ここまで政治は期待されるものなのか。
権力の交代を国民は求めている。
そんな風に心が動かされたことを今でも記憶しています。
結果、選挙による政権交代を掲げた民主党が勝利、民主党政権の誕生です。
私は23歳で政治の世界に足を踏み入れてから、夢にまでみた政権交代に高揚感に満ち溢れた日々を過ごしていました。
城島は再起した。そして夢であった政権交代も実現した。
あとは国会内外で城島の活躍をサポートすることが自らの使命だと思い、秘書業務にあたります。
この時、懸念材料は政権交代選挙時に訴えた「マニフェストの実現性」です。
言い出したらキリがありませんが政権交代可能なエビデンスが集まった段階で、民主党幹部は与党ばりに口を慎むべきであったと思います。
与党慣れしていないと言えばそれまでですが、イケイケドンドンでは国民からの信頼を深く得ることはできません。
当時、友人にこんなことを言われました。
「民主党の政策、実現しなくない?ばら撒きすぎだよ」
政権交代に沸く当事者をよそに国民は至って冷静です。
国民と当事者に横たわる温度差こそ、民主党政権が短命で終わった根拠だと私は思っています。
しかしながら外交安保、内政など多様な政策がありますが、こども手当だけは実現すべきだったと今でも思います。
次回予告 【民主党政権とは何だったのか】
▶︎次話はこちら: #9 元財務大臣秘書が政権与党民主党について語る
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