こんにちは、金村りゅうなです。
本日も私の人生を振り返ってまいりたいと思います。
▶︎前話はこちら: #18 社長だからわかること
【私の履歴書(19)】
2018年7月。
大田区内で新規施設を開園し、安定した経営の中でも私は政治への情熱を失うことはありませんでした。
みなそら園が行ってきた児童福祉施設運営は性質上、政治の影響を大きく受けます。
私が事業を始めてからの8年間で、制度も報酬単価も大きく変化し、現場の混乱は相当なものでした。
その度に政治の側に現場の声が全く届いていないことに対する憤り。
そしてそれは福祉や教育の現場だけでなく、働く人や子育て世代、ひとり親や高齢者、様々な当事者の声が届いていないという結論に至りました。
いまの日本の構造は制度疲労を起こし、もはや崩壊寸前。
このまま既存の政治集団で、果たしてこの国は良くなるのか。
国民の暮らしや働き方を見ていると当たり前のことが当たり前に出来ない社会。選択肢がない社会。
「普通」の暮らしはどんどん厳しいものになっています。
「なんとかしなければいけない。」
危機感、そして使命感が私の心を支配していました。
私は政治の世界を一度も忘れたことはありませんでした。
都議選落選後、事業をスタートさせた時点での目標は「10年で10億円」の資金を作り、政治へ再チャレンジすることでした。
とはいえ、簡単に作れる資金ではありません。
私は事業を経営しながら、政治へ再チャレンジすることを決意しました。
2019年7月の夜
その日、私は旧知の議員秘書と城島光力の長女と懇親会をしていました。
上京してから、議員秘書→落選→経営者と変化していく私を、ずっと変わらず支えてくれた2人に相談しました。
「事業も安定した。」
「現場の課題も理解した。」
「日本は大きな岐路にある。」
「政治の現場から日本を変えたい。」
「個人の人生に選択肢を増やしたい。」
「それが究極の自由。」
私の思いを素直に伝えたところ、2人は喜んでくれました。
2人は私にこう言いました。
「ここまでやってこれたんだから政治にチャレンジしたほうが良い。」
「城島も喜んでくれるはずだ。」
「永田町には私のような根明な人材が必要だ。」
私は本当に嬉しかったことを記憶しています。
政治の現場では度々こう表現されます。
「政治家になりたがる人より政治家に薦められる人材になれ」
少し寄り道をしましたが、私は自分がようやくスタートラインに立てた心境でした。
その場で城島の長女が日程調整し、晴れて城島との面談となりました。
城島の後押し
私は、これまでの思いをすべてぶつけました。
議員秘書の日々、落選経験、経営者としての葛藤。
そして、家族を抱えた今だからこそ気付けたこと。
そして、日本への想い。
「衆議院議員選挙に挑戦したい。」
「そのための情報収集に理解をいただきたい。」
城島の反応は意外なものでした。
「カネちゃんもそんな歳になったか。うん、頑張ってきたもんな。認めよう。しっかり頑張れよ。そのかわり奥さんの理解がなければ認めない。」
私はこの反応に拍子抜けするとともに、ようやく城島に認めてもらえた気がして涙腺が緩んだように記憶しています。
私は秘書時代から城島の前に立つと、伝えたい思いの半分も話せませんでした。
その度に、思った通りに話せない自分の至らなさにいつも反省の日々でした。
ですが、この時は素直に言葉にすることが出来ました。
改めて城島の懐の深さに感謝するとともに、想いを真っ直ぐ伝える大切さを学ぶことができました。
ここから私の衆議院選挙への挑戦がスタートします。
当たり前ですが、出たいと言ったらすぐに出られるわけではありません。
私にとって、ここからが本当の戦いでした。
次回予告 【日本維新の会との出会い】
▶︎次話はこちら: #20 衆院選への挑戦への決意と、日本維新の会との出会い
コメント