こんにちは、金村りゅうなです。
本日も私の人生を振り返ってまいりたいと思います。
▶︎前話はこちら: #19 福祉事業者として感じた政治課題と、政界への再チャレンジへの決意
【私の履歴書(20)】
何をするか。誰がやるか。
2019年7月。
城島に衆議院選挙に挑戦したいこと、そしてそのための情報収集をしたい旨伝え、理解をいただきました。
勿論、城島の理解を得たからといって立候補できるわけではありませんが、政治の世界における「父」と仰ぐ城島の理解がなければ、前に進めませんし政党も取り合ってくれません。
選挙を通じて国民は候補者の『人物』をみます。
私は、「父」である城島からの後押しを得られるかどうかに、全ての判断を委ねました。
全てを伝えた時の城島の反応から、
「この挑戦は私の独りよがりじゃない。」
「必ず挑戦権を得る。」
と決心しました。
私は何をするか(政策)も大切ですが、誰がやるか(人物)も大きいと考えます。
自分のこれまでの人生、そして想いをしっかりと国で役立てる。
必ず、国民のためになる政治家になる。
改めて、決意を強くしました。
情報収集をスタート
早速、衆議院選挙への挑戦に向けて情報収集を行いました。
議員秘書時代からの8年振りにお会いする方も多く、近況報告から昔を懐かしんだりと、有意義な時間を多く過ごしました。
私はこの段階で神奈川10区で挑戦することを第一に考えていました。
それは城島の秘書として活動してきた選挙区であり、私が事業を行ってきた地域だからです。
私の人間としての成長を作ってくれた土地である川崎。
城島が神奈川10区(川崎市)に転区となった2007年当時、人生の『リスタート』を意識したこの川崎。
高度経済成長期を支えた京浜工業地帯からタワマン群を含む、現代川崎の象徴である神奈川10区。
川崎市の課題は、事業を通してしっかり理解していました。
私は情報収集とは名ばかりに神奈川10区で挑戦するという強い決意をもちます。
日本維新の会との出会い
衆議院選挙に挑戦するにあたり、政党選択も考えなければなりません。
私が都議選に立候補した当時の民主党は、離合集散を繰り返し後継政党はあれど民主党そのものは解党していました。
私は企業経営をしながら、この離合集散を繰り返す政党政治に対して冷めた目でみてきました。
民間企業でこのようなことを繰り返していては誰も見向きもしません。
「厳しい時、苦しい時は耐え忍び、日々研鑽を積む。」
「そしていざというタイミングで力を発揮する。」
これは企業経営だけでなく人生の鉄則です。
民主党のゴタゴタと関わりのない日本維新の会を選択するのは自然の流れでした。
まして維新八策を含め政策は行政運営の視点が多く、経営者の私にとって親和性の高い政党でした。
その中でも最も私の心を捉えたのは「自立」です。
私は事業において口が酸っぱくなるほど「自立」というワードを職員に伝えてきました。
なぜ「自立」を強く伝えてきたのか。
それは自立することで自由や選択肢が増えるからです。
私にとって最上の理念こそ「自由」、そして「自由」を得るためには「自立」しなければなりません。
この理念が維新の主張する「自立する国家」「自立する地域」「自立する個人」と同質なのは言うまでもありません。
そして挑戦者たる気概と野心に満ちた日本維新の会は、私そのものであると思えました。
私は先輩秘書を頼りに神奈川維新の会会長の松沢参議院議員との面談をすることになりました。
思い返せば2019年12月28日、松沢議員の参議院議員会館。
松沢議員へ、衆議院選挙にかける思いの丈を伝えました。
そして年の明けた1月8日、神奈川10区においてエントリーすることが正式に決定しました。
城島の理解を得てから実に5か月あまり。
強い気持ちを持って臨んだ挑戦権を得る戦い、ついにここまできたかと感慨深いものがありました。
大げさでもなく私はこれまでの人生を賭けてエントリーしました。
次回予告 【ついに公認候補者として】
▶︎次話はこちら: #21 維新の公募にエントリーしてから、公認を得るまで
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