みなさん、こんにちは。金村りゅうなです。
前回は10年前の東日本大震災発生前後を振り返り、今回は「なぜ私が議員を目指したのか」について綴ろうと思っていました。
▶︎前話はこちら:#0 東日本大震災から10年ー与党議員秘書としての実体験
しかし秘書時代を振り返らないと私が議員を目指す根拠が伝わりません。
そして書けば書くほど手が止まりません笑
2002年、上京間際から人生を振り返りたいと思います。
題して【私の履歴書】、、、日経さん怒るかな笑
【私の履歴書(1)】
変な縁に恵まれて
時は2001年、私は母親の縁で飲食店に勤めていました。
そこに来ていたお客様に大変気に入られ、挙げ句の果てに「君は政治が向いている、よかったら国会議員を紹介するから秘書にならないか」と声をかけられました。
お酒の入った上での話だったため気にせずいましたが、思ったより本気で口説いてきます。
学のない自分に何ができるんだろ。
素直にそう思っていました。
声をかけられている自分自身が半信半疑のまま、城島光力議員が名古屋まで会いに来てくれました。
夕食を共にしたのですが外見、雰囲気、話しぶり、全てにおいて見惚れてしまいました。
22歳の私にとってはそれほど衝撃的な出会い。
つまり城島に惚れてしまいました。
その夜、私は東京に出ることを決意しました。
秘書見習いとしてスタート
2002年4月に上京しました。
私は気合いを入れすぎて角刈りみたいな短髪にしてしまい、城島事務所のみなさんの第一印象は「んん、なんか怖い人?」だったそうです。
その後、議員会館で挨拶を済ませランチの時間になりました。
私の初ランチはキャピトル東急ORIGAMIで食べたパーコー麺でした。
私に与えられたのはドライバー業務です。
城島がよく行く場所、後援者、支援組織、住所やルートの把握。
ある意味、運転すれば良いと思ってたので仕事のボリュームにびっくりしました。
当面はすべての業務が終わった後、翌日のルートを一周まわるようにしました。
安心安全は当たり前、いかに車という密室の中でストレスを感じさせないか。
そればかり考える日々でした。
議員会館というひとつの事務所
私は城島本人と行動を共にしているため国会と地元を行ったり来たりします。
地元事務所は選挙区ということもありピリついた雰囲気でしたが、議員会館はそうではありません。
2002年当時は野党第一党も100議席前後、政党間対立というよりは議員会館そのものが一つの事務所といった雰囲気でした。
そのおかげで、政党問わず私はいろんな先輩秘書から学びをいただきました。
もちろんマニュアルは存在せず、その大半は伝聞です。
私は人の話を聞くことと相手が私に話をしたくなることの大切さを実感しました。
そして私がラッキーだったのは、年齢が最も若く、背が高くて目立っていたことです。
そのおかげで、議員会館にいるたくさんの秘書のみなさんに早くから覚えてもらえました。
城島からもらえた評価
少しずつ運転手以外の業務もやらせてもらえるようになります。
議員会館では国会見学のアテンドや議事録をとったり、地元ではポスター貼りや後援者訪問だったりと私にとってはうれしい限りです。
しかし私に与えられたの業務の中心は運転随行です。
当然、城島にとって密室である車内は携帯電話片手にさまざまな話をします。
ここでの話をすべてまわりに伝えてしまっては、信頼関係を結ぶことはできません。
しかし、ただ黙していては城島事務所の先輩秘書や奥様や秘書である娘さんと、円滑なコミュニケーションも築けません。
私なりに考え事務所運営に必要な情報だけは共有するようしました。
すると城島家3人と私の4人でいる時に城島からこんな声かけをいただきました。
「金ちゃんは口がかたい。いいことだ」
本当にうれしかったです。
自分で考え行動にしたことを褒めてもらったこと、秘書として認めてもらえたような気がしてようやくスタートラインに立った気がしました。
そして視野が広く、どのような立場にあっても褒めることのできる城島光力にますます惚れ込みました。
この人のためなら
23歳の私にとって本当に大きな出会いでした。
私は今でも「議員秘書」という職業をした認識はなく、「城島光力の秘書」を務めたと思っています。
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