議員秘書時代の東日本大震災を振り返る

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みなさん、こんにちは。金村りゅうなです。

昨日はバレンタインデーでした。
この年齢になれば甘酸っぱいこともなく終えると思いきや、ついに娘から手作りチョコをもらうという父親デビューをしました。

これまでいくらでも想像してきた光景でしたが結果として撃沈。
つまり、娘がさらに可愛くなりました

これから様々な経験をしていく娘のスタートをともにできたことは父親冥利につきます。
娘よ、男子は思ったよりバレンタインに期待してるのだぞ。

東日本大震災を思い出す地震

さて、みなさんもご存知の通り2/13夜遅くに震度6強の地震がありました。
私は瞬間、東日本大震災を思い返しました。

すぐに子どもたちを確認し、万が一に備えました。
川崎も揺れが大きかったため震源地やマグニチュードを確認したところ、福島や東北に被害が想定できるほどの報道が見られました。

私は東日本大震災当時、議員秘書を務めてました。
被災したのは衆議院第一議員会館、ちょうど厚労省のレクを受けていました。
激しい揺れに右往左往する中で、明らかにこれまで経験したことのない緊張感を覚えました。
すぐに報道を目にしたところ、被害が甚大なことを理解しました。

東京で被災した自らの無力、同時にボスになり代わりできるだけ被災地の声に応えたいと強く誓ったことを記憶しています。
それからは怒涛の時間でした。

温かい牛丼を届けたい

被災地の方から届く本音の支援、支援物資を届けたい人たちの願い。
いくつもある声の中で象徴的だったのは牛丼の吉野家さんから依頼のあった、被災地へ温かい牛丼を届けたいという声の実現に力を注いだときです。
ルートやガソリンの確保、現地が対応できるかどうか。
慎重に確認した上ですべてを整え、被災者のみなさんが喜んでいる表情をみたときに、私の役割を痛感したものです。

『吉野家』が1日3000食の牛丼を被災地で提供

政治部記者の方から東日本大震災による未曾有の国難に、忙しい事務所とそうでない事務所によって偏りがあることを知りました。
私はこの時に自らが議員秘書であることに天命を感じました。

私が最も重きをおいたのが届けたい思いに対し、被災地が受け止められるかどうかの判断です。
誰だって支援したい、でもマッチングしなければ支援も持て余します。
自らの判断に基づいて思いを繋ぐ作業は膨大でしたが、お互いの笑顔に納得したものです。

再び政治に身を置いた中、地震を経験すると生々しく当時の記憶が呼び覚まされます。
私はこの教訓を活かし防災減災に努めていきたいと思います。

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